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教育再生ー義務教育考察編①ー

昨日まで、幼児教育で様々なものに触れ、身体をつくりながら子どもたちに「好奇心とやる気」のアンテナをビンビンに張り巡らせてもらおうという話をした。本日は、そんな子どもたちが小学校に入ってどのように「今を謳歌」するか綴ってみたい。

以前、ヴィエルマキ小学校の件でこれについて考察した。振り返りも含めて整理すると、そこには主に2つの論点があった。

1つは、「授業・学習」の件。義務教育課程で欠かせない部分である。

以前の投稿では、まず「習熟度別クラス編成」を取り上げた。小学校低学年のうちから自分の学習進度に従って授業を受けられることが大事。国語が苦手ならば基礎的なクラスに入ってじっくり取り組み、算数が得意ならば応用的なことにも果敢にチャレンジできるクラスに入ってやるというような例示をした。

特に小学校入学時には、もう小学2年生の内容もガツガツやってしまう子もいれば、初めて読み書きに触れる子どももいる。公立学校で一番フレキシブルさが求められるのは実はこの段階ではないかと思う。

先月末の県議会一般質問で習熟度別クラス編成について尋ねたところ、これを実施している小中学校の割合は全国平均よりも2割程度低いとの答弁を得た。全国と比べてどのような事情があるのか、さらなる検討が必要と思われる。

また一般質問では、県が普及を目指している「自由進度学習」についても言及した。これは一つの教室内で児童生徒たちがそれぞれに違う学習内容に取り組むことが念頭に置かれている。それぞれに違うといっても、自習のような形で全くバラバラに違うことをやっているわけではなく、一定の規律は求められる。

ただ従来型の講義一辺倒スタイルを一段飛び越えて、自分で学習を進めることもあれば、友人と学び合うようなこともあって、先生から伝えられる情報があれば、手元のタブレットから得る情報も多分にある。というような、多様な学び方を目指している。教職員の手腕が相当求められるであろうし、児童生徒、教員、それぞれのチームワークが非常に重要になってくるだろう。

上記、習熟度別クラス編成と自由進度学習は両立するものだと理解している。ヴィエルマキ小学校で見た光景はそれに近かった。学ぶ科目が変われば、学ぶ先生も教室も、友人も変わり、自分への最適解が常に模索される。1つの教室に先生が2人、3人いるのは当たり前。

特に教員の存在は量的にも質的にも決定的に重要だと改めて痛感した。OECD加盟各国で比較した時に、日本の教員は総労働時間が長いにも関わらず、子どもたちと向き合える時間は短いと言われている。つまり、庶務雑務の負担が日本はとても大きい。

量的な問題はさすがに政治決断でなんとかして欲しい。働き方改革などを通じて改善に向けて動いているだろうが、赤点を平均点に戻そうとするだけの動きにしか見えない。

一方で、子どもたちとの向き合い方に、徐々に議論の重心が置かれていってほしい。これからの先生は物知り博士的な存在よりも、協調性やチームワークを発揮できる人、もっと平たく言えば、子どもが好きで、一人ひとりと同じ目線で歩める人が求められると感じている。

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「授業・学習」に続いて取り上げたのは、2つ目に子どもの「個性・特性」の件だった。

小学校に入った途端に「え?みんなと同じように勉強できないの?じゃあ支援級行きましょう。支援学校行きましょう。」という価値観でいいのか。一種のアンチテーゼとして、インクルーシブ教育などを紹介してきたところである。

これについてはだいぶ厚く扱ってきたので、今回はこの辺にとどめたい。

そしていよいよ、義務教育課程3つ目のテーマ。フィンランドの現場から考える教育シリーズ最終稿にもなる。

そのテーマは「正義」について。

日本の公立学校の正義は誰が決めるのか。校長先生?担任の先生?ジャイアン?

いや、あなたです。

次回はそんなことを記したい。